『老朗漫筆』について 

  老朗漫筆』は長崎県の考古学や埋蔵文化財をテーマとして、誰でも自由に「書きたかしこ、書く」を

  基本方針に執筆された研究ノートや資料紹介、エッセーなどを掲載したコンテンツです。

   かつての『西海ニュース』の延長と思っていただいて結構です。

  投稿にあたって、体裁は自由とし、字数制限も設けません。65歳以下でもOKです。

       なお、『老朗漫筆』は渡邊康行氏の造語です

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                       2024年8月11日公表 ※本文を閲覧するためには標題をクリックしてください。 

         古門雅高「【研究ノート】長崎県南島原市二本櫨(にほんはぜ)遺跡出土の島原半島系土器」

        【要旨】          

        島原半島系土器とは長崎県南島原市今福(いまふく)遺跡を標式とする弥生時代後期後半

       から後期終末の土器群である。本稿では同土器の研究史を詳述するとともに、本年3月に発掘

       調査報告書が刊行された南島原市の二本櫨(にほんはぜ)遺跡出土土器を検討し、島原半島系

       土器の一様式として「二本櫨式土器」を提唱した。

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            ●2024年6月2日公表 ※本文を閲覧するためには標題をクリックしてください。

                   古門雅高【研究ノート】続・長崎県本土部の地域集団の存在と動向

       【要旨】 

           古墳時代前期から中期の本県本土部の地域集団の分布とその動向を検討した結果、マツラ

       (旧松浦郡西部)・ソノキ(旧彼杵郡)・タカク(旧高来郡)のうち、タカクは外部勢力の

       社会的政治的影響下にあったとの仮説を提起した。併せてその外部勢力は火の君(肥君)か

       筑紫の君またはその両者と推定した。

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                            2024年5月6日追加  石棺系石室の類例として諫早市下釜1号墳ならびに2号墳を追加しました。

            ●2024年3月25日公表 ※本文を閲覧するためには標題をクリックしてください。

                   古門雅高「【研究ノート】肥前西部の中期古墳」

       【要旨】 

           肥前西部(長崎県本土部)の古墳時代中期の墳墓には弥生時代の箱式石棺の系譜を引く埋葬施設が

        多く採用され、当地の保守的な地域性をあらわすものと評価されていた。このような歴史的評価に対し

       本稿では、当地の地域有力者が旧来の箱式石棺に固執せず、新たな埋葬施設を創造するとともに、積極的

       に他地域の埋葬施設を取り入れた事実を提示し、当時の人々の創造性や企画性のあらわれと評価した。      

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    ●2023年11月26日公表 ※本文を閲覧するためには標題をクリックしてください。

       古門雅高「【研究ノート】長崎県本土部の地域集団の存在と動向-弥生時代中期から古墳時代を中心に-」

      【要旨】      

        長崎県本土部における弥生時代中期から古墳時代にかけての地域集団の動向を検討した。その結果、当地には壱岐水道沿岸、

         大村湾東岸、有明海沿岸の3地域に有力な地域集団が継続して存在したことが判明した。

         また当地の地域集団に大きな変化が見られたのは古墳時代後期であることが明らかとなった。さらに横穴式石室の玄室面積の

         散布図の検討によって、旧高来郡のそれと旧東彼杵郡・旧北松浦郡・平戸諸島の散布図では大きく異なることが判明した。

         具体的には後者の地域では6平方㍍以下の小型の石室がほとんどであることが分かった。その原因は社会階層や生業の違い、

         あるいは集団の規模が異なるなどの理由が考えられるが、本稿では後者が箱式石棺の伝統が根強い地域であることから、横穴式石室

         築造時や埋葬時に影響していた可能性を指摘した。

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         2023年9月18日訂正 長崎市万才町遺跡出土の(斜縁)四獣鏡の面径を13.4㌢から6.4㌢に訂正

                   いたしました。 

    ●2023年8月28日公表 ※本文を閲覧するためには標題をクリックしてください。

       古門雅高「【研究ノート】西海の鏡」  

       【要旨】      

        長崎県本土部から出土した弥生時代から古墳時代にかけての鏡を集成し、その概要を記述するとともに、

        鏡の分布が示す地域的ならびに時代的特徴を抽出した。さらに鏡の集成を通して、長崎県本土部西岸を往来する

        外海航海ルートの姿が浮かび上がってきた。

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      2023年3月13日公表 ※本文を閲覧するためには標題をクリックしてください。

      古門雅高【研究ノート】糸島系大壺考

           -長崎県平戸市里田原遺跡の通称「荻の下地区弥生墓地のカメ棺に寄せて-」要旨

          宮﨑貴夫氏(前長崎県考古学会副会長)が提唱され、寺田正剛氏(長崎県埋蔵文化財センター所長)が検討された

        「糸島系大壺」を整理・再検討した。その結果、糸島系大壺は弥生時代後期に一連の型式変化のもと、西北九州や

        北部九州の沿岸部に限定して分布する土器形式であったと判明した。したがって製作地と考えられる糸島地方の名を

        冠した同一系統の土器として認識を共有することはきわめて合理的であると結論付けた。

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      2022年10月21日公表 ※本文を閲覧するためには標題をクリックしてください。

      古門雅高「【資料紹介】長崎市小江(こえ)遺跡出土の土師器要旨

      長崎市の小江遺跡から新相の布留式土器が出土していたことが判明した。西彼半島西岸にはこの

      時期の土器を出土する遺跡が点在することから4、5世紀の倭王権の朝鮮半島への軍事進出に呼応した

      中九州や肥後の有力首長層の動きと関連した事象との指摘が以前からある。今回の発見はその学説を支持

      する成果であると言えよう。

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      〇2022年10月1日訂正 本文中の「共時性」を「同時性」に訂正

                         ※日本語の「共時性」はユング心理学の「synchronicity 」の訳語として

                          定着しているため。

      2022年7月28日公表 ※本文を閲覧するためには標題をクリックしてください。

      古門雅高【資料紹介】滑石製石鍋の年代-大村市竹松遺跡の調査成果から-要旨 

                     九州新幹線西九州ルート建設に伴う大村市竹松遺跡の発掘調査成果を基に滑石製石鍋の各型式の出現時期と

      消滅時期を検討した。その結果、耳付石鍋の出現は9世紀末から10世紀前葉、その後12世紀後葉までは存在し、

     13世紀前後に消滅する。

        一方、耳付石鍋に後続する鍔付石鍋の出現は12世紀中頃で、12世紀初頭には存在しない。消滅時期は同遺跡

               の盛期が13世紀までであるため検討できなかった。

      先行する研究では、細部で一致しない点もあるが、ほぼ徳永貞紹氏の見解に沿っている

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        〇2024年5月1日 註1の記述修正(当該遺物は長崎大学が所有していることを明記)

                〇2022年7月11日 写真差し替え      

      2022年6月14日公表 ※本文を閲覧するためには標題をクリックしてください。       

   古門雅高【資料紹介】高鉾島遺跡の再検討要旨

       長崎市高鉾島(たかほこじま)遺跡から不時発見された小児骨に伴う土器は3世紀中頃の時期であり、同時期の

      遺跡には大村市の冷泉(れいせん)遺跡や竹松古墳がある。この時期の本県本土部の墓制は有力集団が弥生的な

      共同墓地を営む形であるため、高鉾島遺跡も同様であろうと推定できる。タカク(律令時代の高来郡に相当)地域

      に本県最古の前方後円墳である守山大塚古墳が築造される半世紀以上前の時期である。タカク勢力と高鉾島がある

      スカ(西彼・野母半島西岸)地域の部族との間でどの程度の政治的緊張関係があったか不明であるが、長崎港入

      に位置する高鉾島の共同墓地に葬られた小児は、祖霊となって敵対勢力から部族を守ることを期待されて、この地

      に埋葬されたのかもしれない。

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       2022年6月3日公表  ※本文を閲覧するためには標題をクリックしてください。  

    古門雅高【資料紹介】長崎県長崎市東上遺跡出土の大形成人用甕棺要旨

     長崎市東上(ひがしあげ)遺跡で不時発見された大形成人用甕棺は従来弥生中期末から後期初頭に編年

     されている桜馬場式に比定できる。

      この型式の甕棺の分布の中心は大村市富の原遺跡であり、その他の本県本土部では分布しない。

     したがってこの型式の甕棺が西彼杵半島西岸で出土したことは、富の原遺跡との関係を考慮せざるを得ない。

     すなわち、富の原遺跡を中心とするソノキ(律令時代の彼杵郡に相当)地域の勢力が九州西岸を往来する

     海上ルートに容易にアクセスするため,さらにはスカ(西彼・野母半島西岸)の海民掌握のため東上の地を

     抑えたと理解することが妥当である。そのためいわゆる貝の道の経路が有明海に移って以降、穏やかで

     あったスカの地域に政治的にも経済的にも劇的変化を生じさせたと推測する。

   

    

 

    

  

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